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みなさん、こんにちは!
リージョナルキャリア沖縄 株式会社レキサンでコンサルタントをしている城間と申します。

沖縄出身の33歳で、大学進学を機に上京し、2024年12月に同じく沖縄出身の妻と子ども2人とともにUターンで戻ってまいりました。

紆余曲折があり今に至りますが、実は沖縄へのUターン転職に向けて動き出したのは約2年も前のこと…。

決して順調ではなかった私の転職活動および移住について、可能な限り詳細にお伝えすることで、今まさにUターン・Iターンについて悩んでいる方が一歩を踏み出すためのお役に立てるヒントを少しでもお届けできましたら幸いです。

とても1本の記事では書ききれないので、シリーズ「私のUターン転職体験記」と題して5本に渡ってお届けいたします。

【私のUターン転職体験記】

  1. 私のUターン転職体験記 ~子どもが生まれて沖縄に戻る決意をする~
  2. 私のUターン転職体験記 ~転職活動のリアルと沖縄での生活~
  3. (仮)Uターン転職の準備・進め方 
  4. (仮)Uターン転職にかかる費用・手続きの注意点
  5. (仮)東京と沖縄の生活比較・働き方の違い

※3~5本目は公開の準備が整い次第、リンクを紐づけいたします。今しばらくお待ちください。

1〜2本目については、Uターンに至るまでと実際に沖縄に帰ってきてからの全体の流れを2つの記事に分けてお届けいたします。拙い文章ですが、ぜひ参考になれば幸いです。

 

プロフィールと経歴

まず、私のプロフィールと経歴です。(早くUターンの話が読みたいという方は読み飛ばしちゃってください)

プロフィールと経歴 履歴書

名前  :城間 美将(Shiroma  Yoshiyuki)
年齢  :33歳
出身地 :南城市
家族  :妻(沖縄出身)、息子(3歳)、娘(2歳)
学歴  :大里中学校→沖縄尚学高校→中央大学
転職回数:3回(3回目の転職が沖縄へのUターン転職)
趣味  :スポーツ(野球、サッカー、ボウリング)、動画視聴(AbemaTV、Youtube、NewsPicks)、料理
特技  :ボーリング、人見知りしないこと

1991年、3人きょうだいの末っ子として生まれました。5つ上の姉と2つ上の兄がいます。

幼少期から中学卒業まで南城市の大里という地域で過ごし、小学校、中学校の9年間は野球部に所属して毎日練習に明け暮れていました。高校から那覇に出て沖縄尚学高校(通称:沖尚)の国際コースに進学します。沖尚は中高一貫校ということもあり、中学受験を経た内部進学の人たちのレベルについていくのに精一杯でした。

高校3年時には、運良く県費留学に合格でき、1年間ドイツに留学。日本人が1人もいない環境で、ドイツ語、英語漬けの日々を過ごしました。

いま思えば楽しかったドイツ留学ですが、当時はホームシックや自分の考えを英語、ドイツ語で上手く伝えられないことにかなりのストレスを感じていました。

毎週木曜日は、学校終わりに1人の時間を作って現実逃避していて、トルコ人が経営するケバブ屋さんに逃げ込んでいました。トルコ人は親日ですごく優しくて、ケバブが大好きになります。いつかはキッチンカーでケバブ屋をやりたいと強く思っています(まあまあ本気です)。

帰国後、一度は東京に出たいと考え、英語とドイツ語を磨ける環境を求めて、指定校推薦で中央大学の総合政策学部に進学します。

一見、真面目な大学選びに見えなくもないですが、当時はやりたいことも何も決まっていなかったので、いろんなことが学べそうというなんとなくの理由で総合政策学部を選んだのが正直なところです。

そして、アルバイト、サークル活動に明け暮れるというthe文系の学生生活を送ります。一番の思い出は、よさこいサークル。4年間で見学含めて計8回高知県に行きました。高知市民並みに高知市内に詳しくなりました。

いざ就職活動が始まると、自分が何がしたいのかわからずに迷走します。結果的には、いわゆる王道の就職活動ではなく、知り合いを通じて出会ったベンチャー企業に就職することになりました。

ここからは私の転職遍歴をお伝えします。

1社目:オーダースーツの販売員

自社ブランドのオーダースーツ事業を展開する企業で、フィッターという職種で採寸、発注、納品(アフターフォロー)の業務を担当します。紳士服業界が縮小するなか、ZOZOスーツという自宅で採寸ができる画期的なサービスができたことで、業界を変えることに加えてWeb業界の知識をつけることを目指して転職をします。

2社目:介護情報サイトのWeb編集者

介護施設への入居者紹介を主軸サービスとする株式会社クーリエという企業で、オウンドメディアのWeb編集者をしていました。

沖縄にいたときに祖母の在宅介護を経験したので、介護や広義の福祉に興味があり、「介護で困っている人たちの役に立ちたい」という熱意を買ってもらい、未経験ながらWeb編集の道に進みます。Webサービスがどう成り立っているのかを学ぶことができ、社員数が30人程度から100人を超えるフェーズで関われたことは、かなり貴重な経験だったと感じています。

3社目:人材紹介会社のオウンドメディア編集者

大手人材紹介のマーケティング部門で、前職と同じWeb編集をしていました。対象とする業界も同じ介護業界で、違いとしては2社目が介護施設を探している在宅介護者向け、3社目は転職を考えている介護職員向けというものでした。ここでは、新規でWebメディアを立ち上げるという貴重な経験をすることができました。

次章の「なぜUターン転職を決意したか」にもつながる部分ですが、東証プライム上場企業ということもあり、高学歴で優秀な社員に囲まれるなかで、「自分はこのメンバーの中で勝てるのか」という壁も感じながら働いていました。

なぜUターン転職を決意したか

転職 沖縄

私が沖縄へのUターン転職を決意したのには、いくつか理由があります。
大きい理由としては、下記の2つが挙げられます。

  • いつかは沖縄に帰りたいと漠然と思っていた
  • 子育てを沖縄でしたいと思った

それぞれについて、もう少し詳しくお伝えいたします。

いつかは沖縄に帰りたいと漠然と思っていた

高校生の頃から、「自分の生まれ育った沖縄のためになにかしたい」という気持ちを持っていました。

高校生の頃にこんな体験をしました。

私は沖尚の国際コースで英語を熱心に学び、その経験を活かして中学時代に通っていた塾で英語のサポート講師をしていました。
塾の後輩に沖尚への進学を勧めると、「私も行きたい!」と言ってくれる子がいてとても嬉しかったのですが、ある日、塾長から「塾内で沖尚の話はしないでほしい」と言われます。
理由を尋ねると、「沖尚は私立で学費が高く、進学を希望しても親に反対される子がいる。それを知ったときの落胆を考えると、話題にしない方がいい」とのことでした。

当時の私は、生徒のためにと思って話したことが、まさか逆に悲しませてしまうとは思いもよらず、大きな罪悪感に襲われます。一方で、「年間36万円(当時の沖尚の学費)くらい、親なら工面してやれないのか」と思ったのも事実。とはいえ、沖縄県の所得の低さ、とりわけ南城市という沖縄県内でも都心部から離れた地域の経済状況を考えれば、那覇市などの所得の高い地域に比べると沖尚に通わせるハードルが高いことも理解できました。実際に自分が親の立場になると、その金額がどれだけ大きいものかを実感します。
かくいう私の家も決して裕福ではなく、父が勤めていたJALが沖尚在学中に経営破綻し、当時の我が家の家計は相当大変だったはずです。
それでも「勉学に励みたい子どもたちにチャンスを与えたい」「経済的な理由でチャンスを奪われることがあってはいけない」という、理想論ではあるけれども、沖縄県民の所得を上げたいと思ったのがこの頃です。

このことがきっかけで、私は東京に出て自身のキャリアを磨き、いずれは沖縄にその経験を還元したいという気持ちを当時から強く持っていました。老後に沖縄へ帰ることができればいいかな、という気持ちもありましたが、その考えは子どもが生まれたことで変わることになります。

子育てを沖縄でしたいと思った

東京で沖縄出身の妻と結婚し、「いつかは沖縄に帰れたらいいね」なんて漠然としたイメージで夫婦で話していましたが、子どもが生まれてからは、子どもが生まれていよいよ現実的にUターンするかどうかを考えるようになります。

東京で子育てをするのがいいのか、それとも自然に囲まれた環境でのびのびと、そして自分たちの両親(じいじばあば)のいる環境で子育てをするのとどちらがいいのかと、かなり本格的に考えるようになりました。

加えて、「子どもがもう少し大きくなり、東京で受験戦争に突っ込むことになったら、大学受験で一般受験をしていない自分たちでサポートができるのか」という不安も抱えていました。

少し補足をすると、私は指定校推薦で中央大学に、妻はAO入試で明治大学に進学。言ってしまえば2人ともまともに受験勉強をしていませんでした。おそらくどちらも、一般受験では中央大学や明治大学には受かっていなかったと思います。

そんな自分たちが、加熱しまくっている東京の受験戦争において、子どもたちをサポートできる自信もありませんでしたし、経済力的な面でも難しいと考えていました。塾に年間100万円以上つぎ込むなど、むり、無理、無理!

だらだらと話が逸れてしまいました、話を戻します。

あれやこれやと妻と話し合いを重ね、小学校に上がったら転校はできればさせたくないと夫婦で意見が一致していたので、もし沖縄で子育てをするためにUターンをするならタイムリミットは3~4年だねということで、まずは私から転職活動を開始することにします。

このときが2022年夏〜秋頃。沖縄にUターンしてくる2年以上前のことです。

ただ漫然と「帰れるなら沖縄に帰ろう」「いい求人があればいいな」くらいの意気込みだったからなのか、自分自身のキャリアや人生と真剣に向き合うという重要な工程をすっ飛ばした転職活動になってしまい、全然うまくいかずに苦労することに…。

沖縄へのUターン転職のリアルは、決して甘くありませんでした。

情報収集の難しさ、給与のギャップ、そしてフルリモート案件へのこだわり故に、思わぬ落とし穴にはまってしまいます。

次回の記事では、そんな転職活動で直面した壁と、実際に沖縄で働き始めて感じたことについてお伝えいたします。
UターンやIターンを考えている方には、きっと役立つ内容だと思いますので、ぜひご覧ください!

城間 美将 Shiroma Yoshiyuki
コンサルタント
沖縄県南城市生まれ。中央大学を卒業後、ベンチャー企業に就職。その後、介護情報サイトの運営企業、大手人材紹介のマーケティング部門にてWeb編集者を経て、沖縄へUターン。2025年1月より株式会社レキサン(リージョナルキャリア沖縄)に入社。2児の父であり、趣味は、スポーツ(野球、サッカー、ボーリング)、動画視聴(AbemaTV、Youtube、NewsPicks)、料理。

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