多くの職種を経験し、沖縄に辿り着くまでの半生
〜第一章:倒壊道中膝栗毛編〜
皆さん、初めまして。
株式会社レキサンでインキュベーション事業を担当しております高橋と申します。
「あれ?レキサンって人材紹介の会社じゃないの?インキュベーションって何?」そう思っていただけた方は、ある意味当社のことを良くご存じの方ですね。
何を隠そう、私自身も代表の島村と知り合い、その話を聞くまではインキュベーション事業に携わるとは夢にも思っていませんでした。
さて、少し長くなりますが、初めに私自身の経歴をご紹介します。
人間生活デビュー
私は1959年7月、東京都文京区に、会社勤めの父親を持つごく一般的な家庭の長男として生まれました。小学校は地元の公立でしたが、母親の方針で中学校から私立の学校を受験させられ、エスカレーター式でその上の高校まで電車通学をしました。
その中学・高校の隣にある大学に進学し、結局、同じ早稲田という街で10年間学生生活を過ごすというあまり面白くない青春を送りました。
私には2歳年下の弟がいるのですが、彼は公立中学、県立高校、国立大学という納税者として理想的なコースで育ち、しかも大学卒業後は地方公務員になりました。私はこの実弟には一生頭が上がらないという決定的な重荷を背負っております。
社会人生活デビュー
さて、就職活動です。
当時(1980年代)伸び始めていたのがリース業界でした。現在のORIXさんはまだオリエントリースという商号で営業をされていたリース業界黎明期でした。私はこの若い業界に狙いを定め、就職活動を行ったのですが、ことごとく失敗。今にして思うと、リース会社も金融業界に位置しますので「優」の数の少ない学生は書類選考で弾かれていたのかもしれません。
内定解禁日も間近に迫った頃、ゼミの教授が心配して「証券会社なら枠があるから推薦するぞ」と有難いお話を下さったのですが、のんきな私は「いや、ちょっと総合商社を回ってきます」と教授の目が点になるような台詞を残し、都心での就職活動を再開しました。
人生何が起こるかわからないものです。リース業界では五指に余る会社から「ご縁がありませんね」と言われた学生が、商社を回ると立て続けに3社から内定をもらえたのです。
その中で業界での序列が一番下に位置するT社では、人事課長から「ウチは若いうちから海外に出してあげるよ。乗ったことないだろ?飛行機」と貧乏学生の弱いところをくすぐるようなことを言われ、その場で他社(S商事やM紅)に内定辞退の電話を入れろとすごまれました。はい、内定辞退の電話を入れました。夢の海外旅行!
なんだか分からないうちに、その日の夕方から飲みに連れ出され、ホテルに二日間缶詰めにされ、真っ赤に目を腫らして内定式(確か当時は10月1日)を迎えました。
そして翌春4月、配属された職場の課長が私の肩や背中をポンポンと叩き「ふむ、今年のは丈夫そうだな」とほくそ笑んでいたのが忘れられません。
今思うと、半年後の10月にインドネシアにへ出張に出されたのですが、帰国予定の示されない出張で、せいぜい1週間と思っていたのが3ヵ月(!)に及ぶ滞在となりました。
これが当時は結構どこにでも転がっていた「体力採用」の実態です。時効です。
商社を辞めた訳
結局、そのT社には14年半ほど在籍しましたが、その間、米国に1年弱、サウジアラビアに2年、インドネシアに8年と、半分以上を海外駐在員として過ごしました。「海外に早く出す」とは聞いていましたが、「出しっ放しにする」とも聞いていませんでした。
T社在籍の晩年には日本政府のODAを推進する経済協力部という部署で課長になりましたが、あるベンチャー企業への出資案件を巡って、決裁権者の専務と喧嘩をしてしまい、この会社を辞めることになりました。
その経緯は時効とはいえ伏せますが、退職届を上司(というか、専務ですから、上司の更に上司筋)の机に叩き付けるという漫画のようなことをやってしまいました。
その案件がボツになった全責任を私が負って退職することになり、直接の上司である部長やその上司の本部長は不問に処すという決着となったのです。
T社最終出社日の夜、本部長主催のお別れの会が赤坂のクラブを借り切って開催され、私を入社時に脅した人事課長(人事部長になっていました)とも盃を交わしました。
お開きの後には「ハイヤーを呼んであるから、自宅まで乗って行ってくれ」と黒塗りに独り押し込められました。なお、私が刺し違えに失敗した専務はその後T社の社長にまで昇り詰めました。
ベンチャー企業への転職と挫折
T社退職のきっかけとなった京都のベンチャー企業の創業者社長に「T社さんを辞めはったなら、ウチに来はりませんか?」と誘われました。
そのベンチャー企業に転職をしたのが私の転職事始めです。
当時はスタートアップとかディープテックなどというカッコ良い呼び方はせず、その手の上場前段階の会社は、全部ひっくるめてベンチャー企業と呼ばれました。
その会社は京都大学の先生が開発した技術で「廃食用油をディーゼル代替燃料に転換する」というプラントの製造を行っておりました。まさか!その燃料が2024年の今、SAFと呼ばれる航空機燃料にまで育つとは、四半世紀前には想像もしていませんでした。
私はそのベンチャー企業でマーケティングと政界へのロビイングを担当する東京支店長という肩書で、東日本の各自治体や資源エネルギー庁、防衛庁(当時)、与党政治家の事務所などへプラントのPRと補助金獲得の支援要請などを行っていました。
上場前の会社には色々な人たちがアプローチしてきます。特に与党系政治家にはその親衛隊のような方々もセットでついて来ました。
京都出張時の宿代わりにと会社が借りてくれたアパートに、ある日、同居人となる男性が現れ、部屋のハンガーに彼の作業着である“戦闘服”(特攻服?)が下げられました。内ポケットには有名な金バッジが……。山の字をモチーフに菱形にデザインされたアレです。 今ほどは「反社」を声高に言う風潮はありませんでしたが、それでも「これはマズイな」と直感しました。 この特攻服の男性は、ベンチャー企業そのものにかかわる人ではなく、廃油の回収の支援のため京都入りされたという事でしたが。
それから間もなく、そのベンチャー企業は資金繰りの悪化により、私の私財まで投入するような状況になってしまいました。 バイオ燃料製造プラントの開発会社が火の車というくだらないダジャレのような話です。
ある日、その会社に貸したお金の返済を約定してほしいと申し入れたのですが、その途端、社長以下、手のひらを返したように私を裏切り者扱いし始めました。これで、敢えなく1年間のベンチャー企業経験は幕を閉じたのでした。
今回はここまでとなります。
ベンチャー企業退職後、さらなるジェットコースター人生が待ち受けていました。
次回は、「例のグルメガイドブックの!?」からお届けします。続きもどうぞお楽しみに。(5/29(水)頃公開します)
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