多くの職種を経験し、沖縄に辿り着くまでの半生
〜第二章:アタシの履歴書編〜
皆さん、こんにちは。
株式会社レキサンでインキュベーション事業を担当しております高橋です。
前回のブログ「多くの職種を経験し、沖縄に辿り着くまでの半生 〜第一章:倒壊道中膝栗毛編〜」では、私の幼少期から最初の転職活動までを紹介いたしました。前回のモノクロ写真を見てお気づきの方もいるかと思いますが、私は60歳を過ぎてレキサンに入社しました。
ここまでの長い人生を、あと2回に分けてご紹介できたらと思っておりますので、最後までどうぞお付き合いくださいませ。
前回のブログはこちらより
多くの職種を経験し、沖縄に辿り着くまでの半生 〜第一章:倒壊道中膝栗毛編〜
例のグルメガイドブックの!?
1年在職した京都のベンチャー企業からの足抜けは、早くから心の準備もしており、同時に事前の転職活動も進めていました。そして、例のグルメガイドを出版していることでも有名なヨーロッパのタイヤメーカーの日本法人からは内々定もいただき、トップの方と握手を交わすセレモニーも済ませていました。
そんなある日、仲介に当たっていた某R社の担当者が真っ青な顔で私に面会を求めてこられました。曰く「フランスの創業家で世代交代があり、それに伴い全世界の人事案件がFreezeになった!」との報せでした。まるで、乗っていたジェットコースターが急に後方へ落下するような気分を味わいました。ジェットコースターパート1。
ま、大陸系のオーナー企業には間々あるようなトラブルだそうです。仕方ない。
京都のベンチャー企業から入手した離職票を手に、人生初のハローワーク通いが始まりました。ただ、心配する家族には「ハローワークに行く」と伝えながら、その足でフィットネスジムに通っていたのは永遠の秘密です。
商社OBという繋がり?
浪人生活にも新鮮さを感じなくなってきたある日、ヘッドハンティングの会社からこんな話がありました。
「海外営業や法人営業のお仕事ではないのですが、ご興味ありますか?」
フィットネス通いで体型は維持できていたものの、収入の維持の為には過去の経験にこだわっていてはいけないと身に染みて来た頃だったので、この話には控えめに言っても飛びついてしまいました。商社での経験や海外駐在の経験は活かせなくても、ゼロからやり直そう!
ヘッドハンターの方に指定された日時に面接場所に出向くと、そこはかとなく自分と同じようなニオイのする男性が。話を始めると、やはりこの男性も商社出身者で、私が就職活動の際に内定辞退をしたS商事のOBの方でした。
お誘いいただいた会社は米国系の大手保険グループで、サービスプロバイダーとして人事、経理、広報、情報システム、総務購買などのバックオフィス業務を受託している会社でした。そして、仕事内容は購買セクションの統括という事でした。そのS商事出身の方(後に部長として私の上司となる)によれば「商社出身なら、売りも買いも分かるでしょ?」とのこと。なるほど、こういう風に“イージーに”方向転換ができるのかと感心し、半年弱にわたるハローワーク(フィットネスジム?)通いは幕を閉じたのでした。
3.11を迎えて
この外資金融グループには1999年から2012年まで、13年半ほど在籍しましたが、その間、世の中では色々な出来事が起こりました。自然災害では2004年の中越地震とその7年後の東日本大震災。この二つの大地震では、災害救援隊のリーダーとして現地入りもしました。
東日本大震災発生当日は東京墨田区錦糸町の本社ビルの20階に居ましたが、ビルが長時間にわたり大きく揺れ、次々と社員が船酔い状態に。電車は止まり、道路はひどい渋滞で全く車が前に進まない有り様。帰宅難民と化した数百人のグループ社員は本社内で不安な夜を過ごしました。
一方、購買課長である私は毛布や食料、水の調達に半日以上走り回り、白々と夜が明ける頃、徒歩で4時間かけて当時住んでいた葛飾柴又まで帰宅しました。翌日からは自転車で片道1時間半かけて本社まで通勤しましたが、ビルの20階にある自分のオフィスまでの階段昇りは「死の行軍」そのものでした。
震災発生の翌月、現地での復興が緒に就き始めました。仙台空港が運用再開した翌日に空路現地入りした際には、青い穏やかな海面を航空機の窓から眺め、「この海原の中にまだ発見されていない被災者の方たちが漂っているのか」と涙が止まらなかったことを覚えています。
Y2KとToo big to fail
経済関係では入社早々、Y2K騒ぎがありました。今では「Y2K」というと懐古趣味的なファッション用語のようですが、当時は大きな社会問題でした。要するに1999年から2000年に移行する瞬間に、システムがそれを認識・対応できずに大規模な障害が発生するのではないかと心配されたのです。
当時は総務購買担当でしたが、会社に泊まり込んで情報システム部と一緒に、システム障害が起こらないか寝ずの番をしました。Webカメラでニューヨークの対策本部に24時間監視されながらの対応は、体力よりも精神的に参りました。
結局、世間を揺るがすような大きな障害は発生しませんでしたが、これは世界中のSEが時間を掛けて予防策、対抗策を練って危機管理を行ったと解釈すべきイベントでした。
2008年にはリーマンショックと続いてAIGショック。そう、このAIGグループに在籍していた私には忌々しい思い出です。破綻したリーマンブラザースとは異なり、AIGは図体が大きすぎて潰すわけにいかないとアメリカ政府に救済されたのですが、出先の日本でも管理職はボーナスが1回スキップしたのです。Oh my Gosh!
散々な目に遭った外資系勤務でしたが、良いこともありました。
社員や保険代理店経営者の子弟が大学進学する際に、返済不要の奨学金を給付するという世界共通の社内福利厚生制度がありました。ちょうど、当時日本にあるインターナショナルスクールを卒業した私の息子達は、この奨学金を得て、大学進学を果たしました。長男はカリフォルニア大学に、次男は私の母校の国際関係学科に入学。それぞれ無事に4年間で卒業できたのですが、年間百万円以上の奨学金でしたから、少なくとも学費は賄えました。
製造業への転身
商社、ベンチャー企業、外資金融と文系出身者としてはカラフルな社会人生活を送って来ましたが、齢も50歳目前。子育ても終わり、どんな余生を送ろうかなと呑気に構えて外資金融の保険会社で総務部長をしていた私に、5歳以上「年下の上司(社長)」が誕生するという椿事が発生したのです。
この若い社長は年上の総務部長が煙たくて仕方がないらしく、ソフトかつ丁寧な肩叩きをしてきました。そうまでされて、ポジションや収入(この頃が今にして思えば年収のピーク!)に恋々とはしたくありません。この外資金融を退職することにし、2度目の本格的な転職活動を開始しました。
前述したとおり、サラリーマンとして、色々な会社に勤めはしましたが、昭和から平成を通じて日本の成長を支え続けた製造業だけは縁遠い存在でした。ぜひ、一度は製造業の空気は吸っておきたい、と考えた私は担当のリクルーターにそのことを伝えました。すると、何という事でしょう、1週間も経たない内に、そのリクルーターから「愛知県の自動車部品メーカーで総務部長候補を探しているのですぐにでも来てくれないか」と連絡が。え、まだ在職中の会社に退職の意思表示もしていないのに!結局、GW明けまでひと月ほど待ってもらって、初めての製造業デビューをしたのでした。
オーナー企業の難しさ
日本のトップクルマメーカーであるT、N、H社をはじめ、ほとんどのカーメーカーと取り引きがあったこの内装部品メーカーは、東海地区の自動車産業に良く見られるような「T社と共に成長してきた」という歴史、経緯を持つオーナー企業でもありました。
オーナー会長は、自身の息子である社長の“跡取りとしての適性”を早くから見限り、経営陣の脇を固めるべく銀行出身者や他のメーカー出身者の中途入社を積極的に進めており、私の入社もそのような流れの中で決まったようです。
この会社では様々な業務に就きました。総務部長兼法務課長、中央安全衛生委員会委員長、コンプライアンスオフィサー、社内相談(通報)窓口、CSR推進リーダー、とここまでは総務部長=何でも屋なので、理解はできました。そうこうするうちに当時80歳を過ぎたオーナー会長の病気治療のお世話もして欲しいと秘書室長の肩書までも。
会長の病気は加齢黄斑変性という眼の病気で、その縁から京大のiPS細胞研究所や神戸の理研、愛知医大の理事長等とご縁ができました。また、地元名古屋選出の国会議員と共に、厚生労働省に陳情に向かうという経験もしました。当時のご縁の一つである東京の創薬ベンチャーの社長とは、現在のインキュベーション事業を担当するようになってから再会を果たすという稀有な経験もしました。
第二章はここまでとなります。次回は、ジェットコースターパート2「突然ハシゴが外されて」からお届けします。
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