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皆さん、こんにちは。
株式会社レキサンでインキュベーション事業を担当しております高橋です。

前回、前々回と続いた私の自己紹介ブログ。今回が第三章・最終話となります。第二章では、様々な職種を経験した後、名古屋にて製造業へ転身するまでをお話ししました。

最終話となる今回は、沖縄へ移住するまでのお話です。
転職や沖縄移住を考えている方の参考になれば幸いです。

前回のブログはこちらより

多くの職種を経験し、沖縄に辿り着くまでの半生 〜第二章:アタシの履歴書編〜

突然ハシゴが外されて

当時は名古屋に在住していましたが、すでに年間4回ほどは沖縄に遊びに来るほど、沖縄という土地柄が気に入っていました。二十歳の頃からひどいスギ花粉症であったことも原因ですが、何よりその気候、植生、食べ物などが8年間過ごしたインドネシアに似ていたのです。いつか老後を過ごすなら沖縄へ移住したいなと漠然と考えていました。

一方、勤め先の自動車部品メーカーは九州地区の工場を中心に人手不足に悩んでいました。沖縄で増えつつあった知人達から「一度は内地の工場へ仕事に行った若い人たちが、沖縄に戻っては来たものの働く場所が少なくて困っている」という話を聞き、何とかそういう人たちを東海地方とは言わずとも、福岡を中心とした九州地区の自社工場で働いてもらうよう採用する出先を作れないものだろうかとアイデアが浮かんできました。

もちろん、そういう就職口を斡旋する会社が無かった訳ではありませんが、第三者としてではなく、メーカー自らが沖縄に採用担当を常駐させるということなら、働く方々自身にも、送り出す親御さん達にも、より安心していただけるのではないかという想いでした。名古屋でその件をオーナー会長に話すと「それは良い案だ。早速、その目的で関連会社を立ち上げろ」という指示が出ました。

これまでの沖縄旅行の目的がマリンスポーツやグルメだったのが、これを境に、事務所の物件探しへと変更です。

ほどなく浦添市内に自宅兼事務所の物件を借り、関連会社の法人登記もほぼ完了。あとは資本金の払い込みを待つという段階に差し掛かったある日、既に引っ越しを終えて沖縄在住となった私に本社役員からの連絡が入ってきました。曰く「例の会社設立は中止だ」と。

何がなんだか分からず途方に暮れましたが、どうやら、オーナー会長の周囲に「アイツだけ沖縄で楽をして。会社の金で遊び暮らそうとしている」と放言した会長の親族がいたようなのです。お年寄り(会長)は部下よりも、身内の発言を気にしたわけですね。

その事件は60歳の誕生日を迎える数ヵ月前の出来事でした。

関連会社の代表となり、定年とは無縁の立場になるはずであったのが、一気に奈落の底へ突き落されたような次第でした。定年退職となる誕生月の月末までの数ヵ月、沖縄から名古屋まで週に一度、飛行機通勤する日が来るとは、夢にも思いませんでした。(ジェットコースターパート2。)

 

さすがに往復の飛行機代や名古屋でのホテル代、出張の日当ももったいないという現実に気づいた本社の役員が「お前は定年まで沖縄に居て構わない。給料も出すし、退職金も満額渡すから」との仰せが。気持ちを切り替えて、定年退職まで遊び暮らそうと妻と開き直ってシュノーケルに居酒屋巡りにと沖縄を満喫していました。

捨てる神あれば拾う神あり


沖縄移住直後。海人を目指して(嘘)

さて、沖縄でタクシーかバスの運転手でも目指すかとズレた事を口にしていた定年間近の私に、かつての商社時代の後輩から連絡がありました。この後輩は東海地区の素材メーカーの御曹司で、大学を卒業後、武者修行で商社に就職、たまたま私が彼の職場指導員(今でいうメンターです)に就いていた間柄。兄弟分のような存在で、この頃彼は本社の代表取締役専務さん。

後輩クン曰く「髙橋さん、今沖縄で何してるの?ウチの会社で沖縄に工場を建てたんだけど、採用や労務管理をしてくれる人が居なくて困ってるんです。良かったら手伝ってくれませんか?」と。 ほう、捨てる神あれば拾う神あり、渡りに舟とは正にこのこと。還暦間近のシニアには勿体ないような好待遇でその素材メーカーの沖縄工場にお世話になることになりました。

次期社長のかつての先輩という立場ですから、本社の人事部も気を使ってくれます。特別に会社の社有車を通勤用に貸与はしてくれるは、ETCカードにガソリンカードも付いてくるは、後輩が来沖すれば飲み代は全部払ってくれるは、再び巡ってきた我が世の春。いやあ、商社時代には厳しく指導したけど、恨まれてはいなかった事に安堵しました。

これはどうでも良い話ですが、商社時代に私が辞表を叩き付けたあの専務が、商社を退職後、取引先でもあるこの素材メーカーに移り社長を務めたそうです。私が入社した頃には引退されていましたが。偶然の巡り合わせながら、人生面白いものです。

好事魔多し

沖縄の工場の採用担当ですから、以前考えていた「沖縄の若者に仕事の場を提供したい」という自分の夢が図らずも実現することになりました。工場の従業員もとても仲良く接してくれ、気持ち良く仕事をすることが出来ていました。

県内の工業高校の進路指導の先生方、沖縄高専のキャリアセンターの先生、沖縄県やうるま市の企業立地支援係の皆さんと和気あいあいと仕事も進められました。レキサンの島村代表と知り合ったのもこの頃。レキサンのクライアントの1社だった訳です。

採用の他に公的補助金の申請作業も担当し、沖縄県や内閣府沖縄総合事務局から、複数年にわたり数億円の補助金を頂くことにも成功しました。これで、誘ってくれた後輩クンにも少なからず恩返しができたと。

そんなある日、工場を統括している営業出身の同僚から「専務、急逝したみたいだ。本社ではまだ箝口令が敷かれてる」と耳打ちされ、体が震えるほどのショックを受けました。まさか……

後に墓参り方々、後輩クンの奥様(この女性も商社の後輩)から伺った話によれば、疲れて帰って来たある日、翌日に医者に診てもらおうかとご夫妻で話をしていたその翌朝、寝床で冷たくなっていたのだそうです。いわば突然死。享年58歳の早すぎる死でした。合掌。

後輩クンが亡くなってしばらくしたある日、人事部長から「高橋さん、申し訳ないけど、次回の契約更改を最終回として、以降更新はなしで」と告げられました。 うーむ、仕方ないですよね。後ろ盾を失って、もう誰も沖縄の年寄りのことなぞ気にはかけてくれません。(ジェットコースターパート3)

 

猫が繋いでくれたご縁

年金の特別支給が始まる満64歳(昭和34年生は1年繰り上げで老齢年金の支払いが開始)でまたまた失業者となり、ここからは年金暮らしかなぁとボヤいていた2023年夏。住まいの近所で一緒に保護猫活動をしていた仲良しご夫妻の旦那さんが「高橋さん、仕事しないの?知り合いの会社で英語が分かる人を捜してるのだけど」と、仕事の斡旋を申し出てくれました。後輩に救われた次は猫に救われたカタチです。

聞けば、その会社は米軍関係の工事を請け負うことが多い建設業の会社で、ゲートパス(入構証)の申請や、入札書類の翻訳などの英語を使う仕事があるらしい。お給料は低いのだけれど、社用車や携帯電話は貸与してくれるということでホイホイ入社しました。

しかし、初めて経験する「職人さん中心の会社」で戸惑うことが多かったのも事実。

現場も体験してみたい、と脚立を担ぎ、あるいは現場撮影用の360度カメラを手にして自分より二回り以上若い人たちと現場に行くのですが、還暦過ぎのオヤジはやれ五十肩で腕が上がらないだの、アパートの3階まで荷物を運ぶと息切れするだの、全く使い物になりません。

これはアカンと事務仕事に専念しようとしましたが、隣のデスクにも向かいのデスクにもバイリンガルの女性従業員さんが。そう、沖縄にはお父さんが米軍関係とか、旦那さんがアメリカ人などという女性がワンサカ居て、米軍や元請けの会社とコミュニケーションを取るだけなら、TOEIC800点台だなどとオヤジが履歴書に偉そうに書いてあっても、彼女たちのようなほぼネイティブスピーカーのバイリンガルさん達には太刀打ちできないのでした。

それではと、これまでの経験を活かして、社長に社内業務のマニュアル化を提案したり、個人情報保護の為の体制作りや社内規程整備を進言しました。しかし、やはり職人出身の社長には「うるさいヘンなオヤジを雇ったなあ」としか映らないようでした。試用期間終了に伴い、「契約更改は無しでお願いします」と頭を下げられて、半年間の建設業初体験は終了です。(ジェットコースターパート4)

その建設会社に在職していた半年の間に、昔の縁でレキサンの島村代表と再会し、OIST絡みの仕事について打ち合わせが始まったのですから、ご縁とは不思議なものです。

最後に


(第一章に登場した2歳違いの弟と)

3回にわたってお届けした私の自己紹介はいかがでしたでしょうか。ジェットコースターのような人生でしたが、今は新たな職場で「沖縄のために何か成し遂げたい」という強い気持ちと、「今夜のおかずは何だろう」という弛まぬ好奇心を持って毎日を過ごしています。

次回は、現在の私の仕事「インキュベーション事業」についてお話しして参ります。

 


株式会社レキサンでは、下記のサービスを行っています。

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高橋 直人

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